都内にある『薩摩藩・西郷どん』ゆかりの地に行ってみました!
都内にある『薩摩藩・西郷どん』ゆかりの地に行ってみました!
昨年の大河ドラマは『西郷どん』でしたね。じつは、東京には西郷隆盛ゆかりの地が沢山あります。少しタイミングを逃している気もしますが、『西郷どん』ゆかりの地を古地図片手にまわってみました!
都内にある『薩摩藩・西郷どん』ゆかりの地に行ってみました!
昨年の大河ドラマは『西郷どん』でしたね。じつは、東京には西郷隆盛ゆかりの地が沢山あります。少しタイミングを逃している気もしますが、『西郷どん』ゆかりの地を古地図片手にまわってみました!
西郷隆盛像(上野)
西郷と聞いてまず思い浮かぶのが、上野の西郷隆盛像です。ここをスタートとしました。西郷隆盛は、西南戦争後、反乱を起こして日本を混乱させた逆賊とされたのですが、1889年(明示22年)2月に明治天皇の特旨により賊名を解かれました。そして、それをきっかけに吉井友美ら薩摩藩の出身者が、西郷隆盛の勇士を讃えるために銅像の建設を計画し、1898年(明示31年)に設置されました。なんとこの計画では、全国25,000人もの有志から寄付金が集まったそうです。制作は彫刻家として有名な高村光雲が行いました。
西郷像のあたりは、江戸時代の嘉永年間(1848-1855)頃には山王社があり、当時から桜の名所として有名だったそうです。江戸時代の地図を見るとお寺が多いですね。別の機会でぜひご紹介したいです。
西郷隆盛・勝海舟会見の地、薩摩藩蔵屋敷跡(田町)
江戸城の明け渡しのため、幕府の陸軍総裁・勝海舟と大総督府参謀・西郷隆盛が会談したのが、この『薩摩藩蔵屋敷』です。ドラマや小説では二人だけで面会したように書かれることが多いのですが、幕府側からは大久保一翁や山岡鉄舟、薩摩藩からは村田新八や桐野利秋らが同席していたそうです。寛永年間(1848年〜1855年)ごろの地図では下屋敷となっており、そのすぐ裏手(現在の芝浦あたり)は海でした。
江戸時代の芝浦は大変豊かな漁場だったそうで、芝浦で捕れた魚は「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、将軍にも献上されるほどの美味しさだったようです。また、芝エビの名前も、この芝浦で多く獲られたことに由来するそうです。
会見の場所を記念して円形の石碑が設置されていました。”西郷吉之助 書”と書いてあります。西郷隆盛も通名は”吉之助”でしたが、こちらはお孫さんの『西郷吉之助』が書かれたもののようです。
薩摩藩上屋敷(三田)
薩摩藩蔵屋敷からすこし歩くと薩摩藩上屋敷がありました。現在はNECの本社ビルが建っています。上屋敷には大名とその家族が住み、江戸における藩の政治機構が置かれていました。その構成は、藩主や正室の部屋がある御殿空間と、政治の執務を行う施設や家臣が住む長屋などがある詰人空間に分かれます。西郷隆盛もこちらで薩摩藩や日本の未来のため活動していたのですね。
現在の地図と重ね合わせると、薩摩藩の上屋敷はとても広いですね。寛永年間(1848年〜1855年)ごろは、史跡の箇所は幕末に活躍した鳥取新田藩上でした。どうやら屋敷の裏手側だったようです。
『西郷どん』で注目の「かごしま遊楽館」へ(有楽町)
内幸町のNTT日比谷ビルあたりには、薩摩藩中屋敷があり(史跡は見つかりませんでした)、そこから少し歩いたところに鹿児島県のアンテナショップ『かごしま遊楽館』がありました。西郷隆盛とあまり関係がないように思われるかもしれませんが、こちらでは鹿児島県の本格さつま揚げを食べることができました。きっと西郷隆盛も生まれ故郷に思いを寄せながら、さつま揚げを食べていたことでしょう。下の画像にある小判型のさつま揚げ『上揚』が昔に近いタイプだそうです。
『西郷どん』ゆかりの地は、東京の中心部に多く、訪れたところのほとんどが大都会でした。古地図と現在の地図を重ね合わせてみると、大きな通りは江戸時代も通りだったり、坂はそのまま坂だったりと、まるでタイムスリップしたような、何とも言えない楽しさがありました。
都内には他にもゆかりの地がたくさんあります(西郷隆盛屋敷跡(人形町)や、西郷山公園(代官山)、目黒不動尊など)。古地図を片手に、歴史や先人に想いを馳せながら街を散策してみるのはいかがでしょうか。
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