忠臣蔵ゆかりの地を巡ってみませんか。
冬にテレビをつけると、忠臣蔵のドラマやドキュメンタリーを観る機会が多いことかと思います。個人的には五代目 中村勘九郎が大石内蔵助を演じた『元禄繚乱』が印象に残っています。そんなことで、今回は東京にある忠臣蔵ゆかりの地にいってみました。
冬にテレビをつけると、忠臣蔵のドラマやドキュメンタリーを観る機会が多いことかと思います。個人的には五代目 中村勘九郎が大石内蔵助を演じた『元禄繚乱』が印象に残っています。そんなことで、今回は東京にある忠臣蔵ゆかりの地にいってみました。
忠臣蔵とは
忠臣蔵とは、江戸時代中期の元禄14年(1701年)に江戸城内において播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭が旗本の吉良上野介を切りつけたとして、赤穂藩主の浅野内匠頭が切腹に処された事件と、翌年の元禄15年(1702年)に家臣たちが浅野内匠頭のかたき討ちのため吉良邸に押し入り、吉良上野介を打ち取った『赤穂事件』を題材にしたものです。
寛延元年(1748年)に初めて『仮名手本忠臣蔵』として歌舞伎の演目になりました。江戸幕府では、武家の事件を文芸や戯曲にするのを禁じていたため、仮名として登場させたそうです(実名になったのは明治から)。もとは人形浄瑠璃(文楽)のための作品として書かれましたが、すぐに歌舞伎化され、人気作品となりました。
そんな事件の舞台となった、ゆかりの地を紹介します。
松の廊下跡(皇居内)
浅野内匠頭が吉良上野介を切りつけたのが、江戸城内の松の大廊下です。皇居が一般公開日でないため城内に入ることができませんでしたが、地図の辺りが松の廊下(跡)になります。
陸奥一関藩 上屋敷跡(新橋)
浅野内匠頭は一関藩(現在の岩手県一関市)の藩主田村建顕の屋敷に預けられ、事件即日に切腹し、泉岳寺に埋葬されました。今は『新生堂』という大正元年創業の老舗和菓子屋さんになっています。こちらでは『切腹最中』が有名です(とってもおいしかったです!)。
吉良邸跡(両国)
元禄15年12月14日(1703年1月30日)に赤穂浪士たちは吉良邸へ討ち入りをしました。現在は吉良邸跡となっています。弊社ラボサイト※の古地図を見ると嘉永年間(1848-1855)頃は『本田内蔵助 上屋敷』となっていました。江戸時代は藩邸の引っ越しはよくあったそうです。
吉良邸は、元々は鍛冶橋の方にありましたが、刃傷事件の後、赤穂浪士が吉良邸に討ち入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄十四年(1703年)8月に幕府に召し上げられ、そして9月にここ本所松坂町の屋敷を拝領し移り住みました。ここに移り住み1年3ヵ月後には討ち入られました。移住させられたことによって、江戸城近くの鍛冶橋の屋敷に比べ格段に討ち入りが容易になったと世間から言われたようです。(吉良邸跡保存会のパンフレットより)
※ラボサイトは現在閉鎖しております。
泉岳寺
赤穂浪士達は、浅野内内匠頭にかたき討ちの報告のため、内匠頭のお墓がある泉岳寺に向かいました。距離として13km。吉良邸の引き上げが午前6時、泉岳寺の到着時間が午前8時頃と言われています。甲冑や武具を身に着けて江戸の中心を走っていったので相当目立っていたでしょうね。
写真左は、浅野内匠頭のお墓です。柵を隔てて隣には大内蔵之介のお墓があり(写真右)、赤穂四十七士のお墓もありました。
境内には『赤穂浪士記念館』があり、討ち入りで使用された陣太鼓や鉢金など貴重な遺品があり、本当にドラマで見たような衣装が展示されていました。かたき討ちを行った12月14日は泉岳寺赤穂義士祭がおこなわれます。
ドラマでしか観たことのない場所に行くことで、忠臣蔵は実話なのだなと、少し実感が湧きました。昔の地図と今の地図を比べてみるのも面白い発見があります。
古地図にご興味がありましたら是非ご相談ください。